ぷうさんのインド紀行

1995年、今から15年前初めてインド・ニューデリーを訪れた。
インドという国は、好きになる人と嫌いになる人が極端に分かれる国だと聞かされていた。
それをわが目で確かめる初めての機会を得て期待と想像に胸を膨らませてインドの地を踏んだことを思い出す。
ニューデリーは首都だけあって緑豊かでイギリス式の街・街路が想像を超えて整然としているように思えた。
訪印の目的は当時いた会社が設立した自動車部品の合弁会社の会計監査であった。
所在が、ニューデリーから1時間ほど郊外にあり、その途次市街を離れるに従って景色は一変し、乾燥した農作地帯の無舗装の道路を埃をあげながら会社に向かった。あたりのそこかしこには牛や象が悠然と路傍を行き過ぎていた。
この時の訪印では、街中は治安と衛生の点からあまり出ぬよう助言されていたので、インドの地を車の中から見たにすぎなかった。
国や街、そこに暮らす人といったものに視覚的な印象だけを記憶にとどめただけで、インドという国のそこに悠久の歴史と受け継がれた人の営みを捉え感じる機会も感性も持ちえなかったというのがこの時の私のインドであった。

それから15年後のこの1月、再びの機会を得た。
インドというものに独特の興味は途切れることなく持ち続けていた。それが何故なのか自分でもわからない。
多くの民族・国を知っている訳ではないが、とりわけインドに興味があるのは、常に「多くの人はインドに惹かれる。」
ということに対する自分なりの理解を得ていないせいだろうと思う。
もう一つは、インドの人々の不可解さ。ガンジス川の聖地に日毎人々が集い、祈り沐浴する光景は不可思議以外の何物でもない。
あらゆる宗教はそれを信奉しない者にとっては奇妙であり得体のしれない薄気味悪さを感じるものだが、ヒンズー教徒であるインド人のそうした習慣はキリスト教・イスラム教の一神教とは全く違う信仰観念を感じさせる。しかし、それでも何故ああまで人々に敬虔なる祈りを捧げ続けるのか。
ヒンズー教というよりむしろインド人の人生観・死生観というものには人を引き寄せる異質感がある。

今回訪印の場所はバンガロール。インドの南部標高900メートルに位置するインド有数のIT関連産業集積の地。
こう聞けば、アメリカのシリコンバレーか日本のつくばの風景を思い浮かべ、そこには近代的なビルが並び、
ほかの国と変わらぬありふれた産業都市があるにすぎないと想像するだろう。
これは見事に裏切られた。いや、むしろ良かったと胸をなでおろした。
目の前に見える街は、私の思いを触発するに十分なインドそのものの、埃っぽく街は何十年も変わらないがごとく
街路はあくまで無整備で人は無軌道に溢れている。

今回も街中を自由に散策する機会も勇気もなくほとんどが移動の車中からの眺めであったが、私自身の感性が15年前と違っていたのであろう、目に映るものからインド民族とインドというものの本質が今回は垣間見えた気がする。
(とは云いつつ、インドと言っても100以上の民族と80以上のお互い通じない言語をもつ人間の集合体だが。)

最初に私の感覚を刺激したのは、街そのもの。そこには都市計画とか交通に配慮した区割り、果ては経済活動を目的とした集客を意図した建物といったものを特徴的に見出すことができない。
建物の多くは煉瓦に土を塗りこめるかコンクリートを上塗りした2-3階建ての小規模建物の連なりであり、そこに目的別の集合性も景観配慮もない。
もちろん最近立て直したものは近代的建造物であるが、それは散在するのみで多くはいつ建てられたものか判然としない。時代を推定できる特徴がないと言っていい。
これは何を意味するのか。
建物というものに機能性とか装飾性、あるいは住む者の価値観を表明するあるいはしたいという意図が全くないことの表れではないかと思える。
違う見方をすれば伝統とか過去からの継承といったものを建造物に見出すことは極めて困難である。
もっと広げていえば、住む土地そのものに自分の生きた証を刻みつけたいという考えがインド人には希薄なのではないかと思える。

次に今回私の視覚を捉えたのは人そのもの。日本の10倍の人口を抱える国の一都市の人の多さは圧倒されるものがある。
あらゆる場所、あらゆる時間帯で街は人で湧きかえっている。
しかもその人たちをつぶさに観察していると不思議なことに気づく。
多くの人たちは街を行きかっているにもかかわらず、何かを目指しているとか何かをしているとかというより、漠然と歩いている、自転車に乗っている、バイクを走らせている、ように見える。
映画の撮影のエキストラの通行人の群れが無言で行きかうようにである。
それがひと箇所、ひと時ではなく、滞在中幾度となくそういう光景に遭遇するのである。
これまた何を意味するのか。
深く考えれば、人、一人間というものの存在そのものに特別な価値をそれぞれの人は持っていないのではないか。
「自分は何なのか、自分はどう生きるべきが、何をすべきか。」といった我々の日々を悩ませる根本的な願望・欲望をインドの人は多く持っていないのではないかと。
「人は、草木・動物と変わることのない、一生命体に過ぎないのだ。あるがままの生命を与えられたなりに繋いでいくことが日々の営みなのだ」と。
ヒンズー教の教義は浅薄な私の知識によれば、来世にまた人間に生まれ変わりたいという輪廻思想があると聞く。
人の生きる意義はただそれだけ、他に何も求めない、人間とはそうした生命だと。
街で見るインド人のまなざしはこちらがたじろぐほどまっすぐで、卑屈さも弱さもないように見える。
まとわりつく物乞いですらただの生活の手段の一つに過ぎないかのうように、何のてらいも敗北感も視線に感じない。

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唯一滞在中観光と称してヒンズー教の寺院を訪れた。
そこにも多くの人が一心不乱に神に祈りをささげていた。
裕福な身なりの人たちがいるかと思えば、物乞いがまとわりついていたりしている。
ついつい貧富の差とかカーストとかを思うけれど、彼らにはそういったものは生きる上で何の価値も興味も持たないように見える。
少なくとも、大多数の人が金銭的豊かさを行動の基準に置いていないことだけは間違いないように思われる。
そうでなければ、街が何十年も変わることなく、汚く、道はでこぼこで汚物やごみが散乱していても何の痛痒も感じないがごとく人々が淡々と生活し街を行き交うなどあり得ない、と思う。

自分が今回の旅でインドを好きになったか嫌いになったか自分自身でもよく分からないが、何故インドを好きになる人と嫌いになる人がいるのかの理由が少し分かったような気がする。

インドは、思っていた以上に深いのだ。これは間違いない。
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インド原産、白檀の仏様。ほのかな香りが何とも心を癒す。

余談だが、やはりインドはカレーの国であった。(インドでは’カレー’という料理はなく、インド料理を総称して’カレー’というのだが。)
最後に、食した「カレー」の写真をひとつ。 すべてが美味しかった。
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この記事へのコメント

ニャゴリータ
2010年02月07日 08:27
興味深く読ませていただきました
が、最後のカレーおいしそう、印象に残ってしまいました(笑)
ぷうさん
2010年02月07日 22:24
カレー大好きで、皆美味しかったのも事実ですが、三度三度というのはいかがなものですかねえ(^_^メ) と思った旅でした。