2020年の誕生日に思うこと

一年前のブログに、『これから毎年、誕生日に際して思うことを『遺書』のつもりで書き記していこう。』と言ったようなことを書いた。(すっかりそのことを忘れていたのを細君に糺されて読み返し、『そんなこと書いていたな。』と思い出させてもらった次第。

読み返すとなかなか長文で、中身も細君に関するくだりがメインで、虚構ではないが随分恥ずかしげもないことを書いていたものである。

世は、新型コロナ騒ぎのいつ果てるともない蔓延で全く移動を封じられ、異国の地で国内外の移動が不自由と言う点についてのみ誠に不満であるが、日々の生活は淡々と過ぎていくだけで、人との交信手段も何の不便も感じない。
要するにこの災いは私の心の中を脅かすものは何一つないということである。

それはさておき、一年たった今年の誕生日にあたりまた何か書き記しておこうと思う。
『遺書』とは穏やかではない言葉だが、残りの人生が見渡せる歳になったという意味ではこれからの一つ一つの行動と言葉は今よりは少し意識して口にし、表さねばと思ったりするのである。

今年68である。
平均寿命の延びたこの時代でこの歳はもはや『初期高齢者』の部類だし、生理学的には紛れもなく『爺さん』である。
長く生きたとしても人生の8割~9割は経過したことになる。要するに私の人生の残りはあと1~2割と言うことである。
その点からいえば、どれくらい残っているか分からない余生をどう過ごすかは結構大事な命題だと思うのである。

だからと言って、年相応(爺さん相応)の振る舞いや考え方(オジン臭く)をしなくてはいけないとか、年甲斐もないことをしている場合ではないということではない。
それが考えの根元にある訳ではない。

今まで何かを考え、何かを目指してそれなりに懸命に生きてきたことに何の後悔もない。
やり残したことがある訳でもない。
その点、今死んでも何の未練もない。
ただ、如何せん命は選んだものではなく与えられたものだと思っている。『自死という選択肢があるが、それは今の私にはない。
与えられた命を大事にしているかと問われれば、恥ずかしいかな『No!』である。かなり気を遣わず生きている。
暴飲・暴食・暴煙など明らかに命を縮めることはやっていないが、『これをやったら健康を保てる』
とか『これを続けたら長生きできる』などと言われるものには今のところ目を向けていない。
細君の事あるごとの注意も推奨も右から左である。

そして、『私は76でこの世に別れを告げる』と嘯いて憚らない。

自分勝手な話である。

共に長生きを望んでいる細君や家族に対して無慈悲な考えである。

今年は、このことについて改めて考え直してみようと思う。(もう手遅れかも知れないが。)

甚だ言い訳じみるが、現在の生活拠点であるインドネシア(しかも、当分本帰国が難しい状況)で、今の自分の肉体状況を正確に把握し、その結果に対して必要な対策を講じることは、医学的体制もあるし、対策を持続的に講じることは仕事の立場上無理である。

やはり、言い訳である。
やる気の問題なのである。

分かりました。
気を入れ替えて、一丁やってみますか、この一年肉体的な健康と体力の維持の為の行動を。
(こういう時に細君は貴重で強力なエンジンなのだが。)

今回の主題である『余生をどう生きるか』と言う命題についてである。
(来年もまだ答えは出ていないと思うけど。)

まず考えの根っこにあるのは、『常に何かを追い求めたい。』のである。それが生産的であろうが貢献的であろうが、自分がやりたいと思うことを実践したいのである。

その点、これまでと本質的には何も変わらない。
違うのは成果物としての金銭の享受が無いことである。

この実践が無ければ、多分脳は衰退し外見もない面も『老い』るであろう、間違いなく。

5-6年前に、『仕事』を辞めたあとやりたいことを、どこかのノートに書き出してみたことがある。
その時とこれからでは、変わっていないのかあるいはまったく違うのか分からないが、ゼロから考え直してみるつもりである。

それにしてもやはり、肉体ありきである、気力も行動力も。
『病気にならないと健康の有難味が分からない。』という、ボンクラさが自分でつくづく嫌になる。

細君の厳しい監視と指導が待ち遠しい今日この頃である。

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