我が城下町

昭和2x年、戦後に私が生を受けた場所は、古くからの城下町である。
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生家は城の天守閣から2キロほど北に行った、かって外堀であった小運河を300メートルばかり離れた場所に父が初めて建てたものである。
地名に「庄」の字が付くことから、お城の周辺に居住する武士階級の外側の農民耕作地域であったと思われる。
私が生まれた当時はまだ宅地化の初期段階で、家の周りは宅地と農家と耕作地(稲田と地域特産の畳表の材料のイグサ畑が混在した)が広がっていた。

家の前には幅2メートル足らずの小川が流れており、幼児が水浴び出来るほどの水流と清らかさがあった。
家の後ろはイグサ畑、小川の向こうは稲田。その遥か向こう(子供の眼にはそう見えた)にお城の天守閣が遠望できた。
我が家の隣には片側二軒の民家(一軒はバスの運転手さんの家、もう一つはすこうし危ない職業の人)、
反対隣は印刷屋さん、斜め前は、そのあたりの地所持ちの農家(昔で言うところの庄屋さんだろう)
があったきり。

父は、お城のそばにある街の国鉄駅から1時間ほどかかる隣の県の勤務先まで毎日通っていた。
当時片道2時間近くかけて通勤していたというのはちょっと信じられないが。
駅までどうやって通っていたのか。
バスが頻繁に通っていたとは思えないし、貧乏月給でバスに乗っていたとも思えない。

父が撮ったという写真が一枚ある。
それは、自転車に乗った母が家の近く街に通じる通称「八間道路」と呼んでいた幹線道路を颯爽と家に向かっている写真である。
母は自転車の上で笑顔を向けている。
後で聞いた話では、当時父は写真に凝っており、たまたま母が出先から帰ってくる姿を見かけ写真を撮ったのだという。母はその父に気づき、照れながらも笑顔になったらしい。
貧乏の日々の中で、ささやかな幸せが撮るものと撮られるものに溢れていたと思うと胸にこみ上げるものがある。

当時私はまだ幼子だったはず。
日本人がみんな貧乏だった時代。自分が不幸だと思ったことはない。
おやつといえば、サツマイモを蒸かしたものか、時々やってくる「ポンポン菓子」屋さんにお米と砂糖を渡して「ボン」とやってもらうか、あるいは「ハッタイ粉」を砂糖と水でドロッとさせて食べるか。
それで十分満足だった。お金はなかったけれど、ひもじい思いをしたことはない。

家からお城までは2キロほどある。
子供にとって2キロなる距離は、未知の場所に近く、親に連れられて行くお城はもう遠足・旅行(これは少々大袈裟だが)感覚である。

幼い日、3度親に連れられてお城に行った記憶がある。
すべて、お城下の護国寺という寺の広い境内で行われた興行の見物であった。
一つは、大相撲。ひげもじゃ大男の朝潮が来ていた。ねだって行司の団扇を買ってもらった。
一つは、プロレスリング。力道山はいなかったがその弟子の大木金太郎がいた。恐る恐るサインをもらった記憶がある。しばらくは大事にそのサイン帳を持っていた。
もう一つは、木下サーカス。大きな鋼鉄の球体の中をオートバイが縦横無尽に回転するさまに口を呆けて開けていたはずだ。

少年になる前の無心の子供にとってのそうした夢のような感動と興奮は未だに脳のどこかに感覚として残っている。

お城の裾には、戦時中掘られた横穴の防空壕がいくつか放置されており、子供は冒険心に駆られながら奥まで恐る恐る入ったものである。
湿気の強い、得体のしれない小さな虫が這いまわるその中は、子供の亡霊に対する恐怖を呼び起こすに十分の隠微さがあった。

変わり果てた城下町に哀惜の念があるのではない。
過ごしてきた幼少の頃の、自分を包んでいた風景と父母をはじめとした周りの人々との日々が愛おしいだけである。

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